日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 扇谷上杉氏の家宰・太田道灌を謀殺した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
さて、道灌を出した太田氏は元々、扇谷上杉氏の家宰の家柄であり、道灌の父の道真(どうしん)の頃から特に重用され、道灌もまた父同様、もしくはそれ以上に重用され側近として力を発揮していました。
山内上杉氏の家宰である長尾景春(ながお・かげはる)が起こした反乱(長尾景春の乱)においては、すぐさまに乱を鎮圧し、その名を轟かせました。また、古河公方の勢力と戦うための拠点として国境(利根川沿い)に多くの城郭を築き上げました。それが江戸城や河越城、岩槻城だったのです。
古参の重臣だった太田氏に対して、兵庫は新参の家臣だったと言われています。
一説によると、道真に目を懸けられて家中で引き立てられ、頭角を現していったそうです。その結果、主君の定正の養嗣子(後継者)である上杉朝良(ともよし)の家宰を務めるまでになっていました。
朝良は武将としては頼りない文弱な少年であったといいますので、家宰を務める兵庫には強い責任感が芽生えていたかもしれません。
2人が仕える扇谷上杉氏は、戦乱真っ只中の関東において、勢力を減退させるどころか拡張させることに成功しました。これはひとえに道灌の活躍によるものでした。
しかし、この道灌の活躍が、兵庫と道灌の運命を決定付けることになってしまったのです。
戦勝に次ぐ戦勝の結果、道灌の名声は関東中に響き渡り、道灌の主君である扇谷上杉氏だけでなく、主君の主君にあたる山内上杉氏をも凌ぐほどになっていました。
先年、長尾景春(山内上杉氏の家宰)が大きな反乱を起こしたばかりであったことに加え、道灌が出仕(主君への面会など)を行わずに江戸城と河越城の改修を重ねていることから、両家の上杉氏にある疑心が生まれてしまいます。
「道灌は謀反を起こすのでは…?」
そして、兵庫をはじめとした扇谷上杉氏の家臣たちは「道灌が家政を独占している」と道灌に大きな反発心を持っていました。
また、道灌自身も同輩に宛てた書状で、主君の山内上杉氏や扇谷上杉氏に対して「御家中が整っていない」「徳が備わった人がいない」「無人な扱いをされるのは不運至極」など不満を述べています。
そのため、「道灌謀反」の噂は両上杉氏の家中では、いつの間にか確かなものへと変わっていってしまったのです。
そして、時は文明18年(1486年)7月26日を迎えます―――。
道灌は主君の上杉定正に招かれ、相模国の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に向かいました。
兵庫は、主君と共に館で道灌の到着を待っていました。
道灌は館に到着して定正への面会が終えると、風呂に入ることを勧められました。
「今宵の宴に向けて、戦場の垢を洗い流してはいかがか」
そのようなことを言われたのかもしれません。
道灌は館の一角にある風呂屋に向かい、風呂に入り始めました。
当時の風呂は、現在でいう蒸し風呂のような形態をしていたと言われています。
兵庫はその時、主君の命によって、白刃を携えて風呂の小口(にじり口)の側近く息を潜めていました。
間もなくすると、道灌が風呂から出てくる雰囲気が感じ取れました。
「一刀で仕留める…!」